ココロノうちでの 第1-25話 「彼のリクエスト」
ココロノうちでの まとめ
「ただいま帰りましたー」
カイが優衣の部屋を後にしたのは、お昼を回ってからだ。
いつごろ解散するかは事前に決めておらず、先生たちには念のため「自分の分の昼食は用意しなくていい」と伝えておいたのだが、結局、優衣に昼ご飯まで作ってもらってしまった。玲美がいるため次の日の朝までというわけにはいかず、和美も午後から部活があるらしいので、駅前で優衣に見送られて帰途へ着く。
比良坂家の前で姉妹と別れ、自宅に着いたカイは、母屋の玄関から入って居間へ向かった。先生たちに帰宅の報告をしなければならない。
が、居間には誰の姿もなかった。それどころか、家中から人の気配がしない。カギはかかっていたから、四人とも外出中なのだろうか。
ついでに気になるのが、微かに鼻孔へ届くこの匂いだ。
台所に目をやると、放置されたいくつかのゴミ袋の中に、大量の空き缶や空きビンが詰まっている。風通しのいいこの部屋に酒気が残るなんて、いったいどれほど飲んだのか気にはなるが、おかげで、こちらの匂いには気付かれなさそうだ。バレるほど飲んだつもりはないけれど、用心するに超したことはない。
しばらく待ってみても誰かが来る気配はなく、各人の部屋を探して回るほどでもないので、カイは離れへ足を向ける。やはり玲美がいる手前、そこまで夜更かしはしていないが眠気は残っており、あくびをしつつ戸を開けると、
「うっ」
思わず、声を上げてしまった。
離れには先客がいたのだ。座卓の両脇には座椅子があり、その内の一つにユウが座っている。メガネはかけたままだが、どうやら眠っているらしい。
電気が点いていないところを見ると、うたた寝ではなく、寝ようという意思を持って眠っているようだ。にしたって、なぜこんなところにいるのか。同居前ならともかく、今はすぐ近くに自分の部屋があって、ちゃんとしたベッドもあるのに。
いずれにせよ、起こしたら何を言われるかわからない。とりあえず持っていた荷物だけを置いて、この場から立ち去ろうとしたのだが、
「……帰ってきてすぐ、どこ行くつもりだ?」
自分を呼び止めた声に恐る恐る振り返ると、案の定、ユウの目は開いていた。
「起きてたんですか?」
「いや……いま起きた」
「す、すみません、起こしちゃって」
「……いま何時だ?」
予想に反して機嫌は悪くない。起きたばかりでまだ頭が働いていないのか、カイが時間を告げても、「んー……」と唸っただけで、立ち上がろうとしなかった。
「あの……ところで、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「どうしてここで寝てるんです?」
「? あー……」
尋ねられて、ようやく自分のいる場所に気付いたようだ。ユウはそれ以上答えなかったが、大方、酔っていたため、毎晩のように来ているクセが出たのだろう。居間ほどではないが、ここにも微妙に酒の匂いがこもっている。
換気のためにカイが窓を開けていると、ユウはふらつき気味に腰を上げた。ぼーっとしつつも「シャワー浴びてくる」と告げ、「大丈夫ですか?」と聞くカイを制して部屋から出て行く。一応、自分で歩ける程度に意識はあるらしい。
心配ではあったが、さすがに風呂場まではついて行けず、大人しくこの場で待つことにした。あの口ぶりだと、入浴後に戻ってきそうだ。
カイは電気を点けると、カバンから「第二稿」と判の押された脚本を引っ張り出し、何度目かの通読を始めた。練習は段階を踏みつつ読み合わせから立ち稽古に入っており、キャスト陣はこの土日に、現時点での台本を覚えてくる予定だ。カイの仕事にはまだ余裕があるため泊まりにも行けたが、今から調べられる部分は調べておきたい。
そうした内情を知っているのかいないのか、暢気にも真っ昼間からシャワーを浴びたユウが戻ってきたのは、しばらく経ってからだった。酔いも洗い流したのだろう、幾分さっぱりした顔つきをしている。ちゃんと着替えている――と言っても、単なる色違いの服だが――ところを見ると、一旦自分の部屋に戻ったらしい。
定位置に座った彼女は、持参したペットボトルをラッパ飲みし始めた。ミネラルウォーターであるところに、彼女なりの自制心が伺える。
「他の先生はどうしたんですか? いないみたいでしたけど」
「リンとサエは部活で学校。ミナはいるぞ。自分の部屋で死んでるが」
「死んで……あぁ、酔いつぶれてるってことですね」
「リンのやつもヘロヘロだったんだがな。行かなきゃダメなんだと。まぁ、あいつが直接指導するわけじゃないし、無理はしないだろ」
自分がいないおかげで、先生たちも盛り上がっていたようだ。あの二人がそこまで泥酔するとは思っていなかったが、その姿を見てみたくもある。
ユウの説明によれば、サエは平気だったらしい。ミナとリンは途中でダウンしてしまったので、部屋の片付けはサエと二人でやったのだそうだ。全員が同程度飲んでいたとすると、彼女の酒の強さは、ユウと同等以上ということになるだろうか。
ちなみに、サエは生物部の顧問だ。
そして、ユウの受け持ちは演劇部だったりする。
「お前、今日の夜、なに食べたい?」
カイが台本に目を向け直していると、唐突にユウはそう聞いてきた。久しく彼女から言われることのなかったセリフだ。
疑問符を浮かべるカイを見て、ユウは面倒くさそうに続ける。
「ミナとリンがあの調子じゃ、あたしが作るしかないだろ」
「作るしかって……店屋物じゃダメなんですか?」
カイの問いかけに、ユウは一拍置いて、
「お前がいいならそうするが」
「……いえ、お願いします」
カイが店屋物をやめたのは、この辺りの店に飽きたからだけでは、もちろんない。
「麻婆豆腐……は、二日酔いには重いですよね。あの、何て名前でしたっけ、鶏の胸肉だか、ささみだかにゴマだれがかかってるやつ」
「棒々鶏か?」
「あ、それです。それならあっさりしてたと思うんで」
「作るのはいいが、練りゴマのストックなんてないぞ? 鶏肉も、冷凍庫にあるのはもも肉だけだった」
「俺が買いに行きますよ。他のも合わせてメモをくれれば」
「そう言っといて、前のときはどれにすればわかんなくなって、出先でいちいち電話してきただろうが。今回は安いの選んでこないとミナのやつがうるさいぞ」
「なら……どうします? ユウ先生が行きます?」
ユウは少し思案したように――あるいは、自分が作ると言い出した時点でそうするつもりだったのかもしれないが――目を伏せてから、一言「一時間」と呟いた。カイがその意味を把握する間もなく立ち上がり、彼の側に回る。
そのままユウは、カイにもたれかかった。足の間に座って、背中を彼の胸に、頭を肩に預ける。ちょうど、座椅子代わりにする格好だ。
慌てるカイを意に介さず、ユウは平然と言う。
「もう少し寝るから、一時間経ったら起こせ。それから行く」
「こ、この姿勢で寝るんですか?」
「座椅子じゃ背中が痛いんだよ」
「だからって……」
「それと言っとくが、お前も荷物持ちに来るんだからな。一応、バレないように……」
「……バラバラにスーパーへ向かって、一人で荷物だけ持って帰れと?」
振り返ることなくユウは頷くと、力を抜いて寝る体勢に入ってしまった。こうなってはもう抵抗のしようがない。部屋に戻れば、と提言しても無駄だ。
仕方なく、カイは時刻を確かめた。ケータイのアラームをセットしてもいいのだが、それで起こしてしまうと、「そういうことじゃないだろ」と怒られそうな気がする。自分が寝るわけにもいかないので、台本読みへ戻ることにしよう。
と、その前に、かけたままのユウのメガネを、そっと外した。
早々と寝入ったのか、小さく呼吸音が聞こえる。心臓の鼓動が眠りを妨げてしまいそうで、カイは懸命に平常心を保とうとした。体に密着している柔らかくて温かい彼女の背中も、なるべく意識しないようにする。
しかし、メガネを座卓に置こうとすると、今度は嗅覚が刺激された。長い髪から、シャンプーなどのいい香りがするのだ。風呂上がりのため、余計に強く感じる。酒の匂いはなくなり、タバコ臭くもなかった。本当に吸うのをやめたらしい。
カイはメガネを置き、その手を隣にある脚本に伸ばそうとした。
だが、香りに誘われるように、ユウの髪に触れてしまう。彼女の髪は玲美とは違い、しっとりとスベスベしているけれど、手触りがいいことに変わりはない。
何度か手ぐしをしていると、だんだん好奇心が頭をもたげてくる。髪型を替えるなんてことをするのは玲美くらいで、当然、ユウにしたことはない。
せっかくのチャンスだ。やってみようか。
一度思いついてしまえば、もう止まらない。
後が残らないよう、起きる前に戻しておけば気付かれることはないだろう。短絡的にそう考え、髪をいくつかの束にして編み込んでいこうとしたのだが、
「あたしは必要ないからな」
突然、ユウから声が発せられ、カイの手はぴたりと制止してしまった。
「お、起きてたんですか?」
「二度目だな、そのセリフ」
「す、すみません、起こしちゃって」
「それも聞いた」
この角度から表情は伺えず、声からも感情は推測できない。
「髪いじるだけなら放っておこうと思ったんだけどな。どうせまた、誰かさんにしてやったんだろ? それに触発されて、あたしにもやろうとしたと」
いちいち図星すぎて、カイにはこう答えるだけで精一杯だった。
「……周りに何人かいましたからね? やってあげた相手だけじゃなくて」
しばし無言だったユウは、少し起き上がると、わざとカイに体重をかけてきた。彼がうめき声を上げるのも無視して、「今から一時間後」と改めて告げる。
やがて聞こえる、規則正しい寝息。本当に眠ったらしい。
カイは細く息を吐くと、彼女の体温と体重を感じながら、台本を開いた。
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