ペット 空影 -karakage- 忍者ブログ
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2024/11/23 04:28 |
【ネタバレ】 河童のクゥと夏休み

 3日、「クレヨンしんちゃん」スペシャルがテレビで放送されました。劇場作品の公開を目前とした「仮面ライダー電王」とのコラボ企画ということで、アニメとなった電王の世界にしんのすけが入り込み、さらには「しん王」に変身して敵であるイマジンと闘う……というお話。アニメパートの尺が予想以上に短かったりモモタロス以外のタロスが登場しないのは残念だったものの、ただのゲスト出演ではなくしっかりとクレしんクオリティでまとめてくれたのには好感が持てました。今後も機会があればコラボレーションしていってほしいですね。
 ぶりぶりざえもんの扱いに関しては批判があるようですが、自分としてはあれでいいと思います。こういう機会でもないと存在を忘れられてしまいそうですし、声優を交代させないというスタッフの意思が感じられるので。まぁ、『喋ろうとすると砂になってしまう』って設定が悲しすぎるという意見には同意なんですけど……。

 しかし、今回の放送で一番注目したのは8月31日の放送予告。しんのすけの家に「カッパ」が来るというあらすじを聞いただけで、思わず笑ってしまいました。原作にも一応そういう話はあったと思いますが、何もこの時期にやらなくても……。原監督には許可を取ったんでしょうか。
 ついでに、しっかりと「クゥ」の宣伝が流れていました。あれ、電王は東映のはずでは……。

 さて今日は、そんなネタ(?)に使われた河童のクゥのレビューを。観てから3日も経ってしまいました。
 コードギアスのほうはいつになるでしょうか……。

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・河童のクゥと夏休み 
原作と出会って20年以上、原恵一監督がクレヨンしんちゃんを手がけていた当時からアニメ化を切望していた本作。プロデューサーやキャラクターデザイン(作画監督)、音響監督、CG監督、シンエイ動画……などなど、クレしんスタッフが多数参加しています。放映前から期待せずにはいられませんでした。
 以下、ものすごく長くなりそうなんで項目ごとに。いつもの通り敬称は略してあります。

■総評
 まず『よくできた作品だった』と言っておきます。美麗な背景やBGM、書き込まれた情景と人物描写、全体のしっかりとした構成、耳障りでない適度なギャグ……そして何より、作り手――原監督の熱意を感じられるものでした。書き手目線としてここは、最も大切にしたいところですね。作画的には多少微妙(シーンによって多少バラつきが観られました。長丁場の劇場作品で作画監督が1人しかいないのは異例のことのようですし……)だったものの、これくらいは許容範囲でしょう。
 しかし、『手放しで傑作か』と問われると答えに窮してしまいます。『このシーンが見所』『こういうところに注目して』とは言えません。泣けるわけではないですし、笑えるわけでもないですし、エンターテイメントとして楽しめるわけでもないですし……。印象は『手堅い良作』といったところでしょうか。一言で言うと地味です。ソツのない作品作りは難しく、かつ大切なことなんですが、それが観客に伝わるかはまた別のお話で。
 個人的には楽しく観ることができました。中盤~後半は、ダレることのないストーリーに感心もしました。ただ、以下に挙げる考察(読み込み)は「原恵一監督」という前提によって成り立つことだとも言えます。原監督でなかったらこんなことをしたか、そもそも映画を観に行ったかは……わからないなぁ。もちろん、だから評価しているということではありませんけど。

■対象は誰なのか
 公開前から不安に思っていたことですが、「クゥ」は誰に――どの年代に向けて作られたものなんでしょう。未就学児でしょうか、学生でしょうか、親世代でしょうか。「ファミリー向け」という言葉にも、家族の足を劇場へと向かせるのは子どもであるため疑問があります。『おもしろい映画だから』と言って親が子どもを連れて行く姿は想像できません。『クレヨンしんちゃんの原監督』という宣伝文句も機能したのかどうか……。原監督が担当していたころのクレしんを観ていた子どもたちは、もう成長してしまっているのではないでしょうか。
 映画として一般の客層を引き付ける魅力やインパクトがないため、結局、効果のわからない宣伝文句にPRポイントが集約してしまっているわけですね。良作というだけで、アピールする部分があまりない。いくら「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビ放送されていると言っても、妖怪というだけで興味を引くわけではないでしょうし。
 こうした不安は、冒頭、クゥの父親が侍に惨殺されるシーンを観ることで確信に至ります。刀で切り殺されるんですが、腕や体を切られる描写が妙にリアルで、血飛沫まで描かれていました。『人間に殺される』という悲劇を強調させたいのはわかるものの、この突き放し感はいったい……。カラスが爆死するシーンも含め、子どもだったら怖がるだけでしょう。親も、いい気分は決してしないと思います。
 全体的な内容も、小学生までの子どもには少し難しいかなと思われるものでした。ギャグがないと間延びしてしまった部分(特に序盤~中盤)もあります。だったら大人を楽しませたり深く共感させられるのかというと、そうでもない。ではどの世代の人間が、どのように楽しむ作品なのか……。
 その答えは、あまり見えてきませんでした。

■舞台設定
 遠野と言えばやっぱり「魔法遣いに大切なこと」を思い浮かべるんですが……と、それはさて置き。
 康一家族が暮らすのは、東京東久留米の一軒家です。二階建て、庭・車庫付き、リビングには畳敷きの区画がある建売住宅であり、同じような外観の家が立ち並ぶ他、周囲には畑や野原など自然が残っている様子(と言えば聞こえはいいですが、実際には住宅建設のために無理やり開墾をしたような場所)が描写されていました。小学校までは徒歩で通学でき、幼稚園はバスで送り迎えをしてくれるようです。
 舞台としては、都会と田舎の中間ということでしょう。都会というほど都会ではなく、田舎というほど田舎でもない……。実際、劇中で主人公である康一がそういった意味の発言をしています。また、原作が出版された時代ではなく、いまこの時――現代を描いており、それを感じさせる機器・アイテムが登場していました。無線LANによるネット通信・写メール・携帯電話を使う小学生・コンビニでの宅配……などなど。
 ただ、そのわりには時代錯誤的なシーンが存在しています。ランドセルが男子は黒、女子は赤に統一されていたり、家にはインターフォンがなかったり、誰もメールを打つシーンがなかったり……。康一と紗代子が別れる場面でも、「手紙」という手段が飛び出してきました。康一の使っていた携帯電話が誰のものかはわかりませんが、小学生がなぜメールと言い出さなかったのだろうと思ってしまいます。
 こうしたアンバランスさは、意図的なものなのかそうではないのか……。「冷房」の使用をあえて避けていたような節があるので、おそらくは前者だと考えられます。原監督なりのこだわり、といったところでしょうか。
 個人的には、クゥが雨を浴びるシーンで「何だか酸っぱい雨だな」と言ってほしかったり、送迎バスのシーンで母親が迎えに来ない子ども(別の母親がその子の家まで送る)がいてほしかったと思うのですが……。まぁ、ここまで来ると細かすぎるツッコミになるのでやめておきます。

■家族というテーマ
 康一の家族構成は、一般企業のサラリーマン(おそらくは中間管理職)である父親、専業主婦である母親、長男である康一、少し年の離れた妹、オスである飼い犬……と、明らかにクレしんと同じものになっています。犬が何らかの理由から飼い主の下を離れ長男に拾われたというエピソードや、家族たちの役回り・性格も類似しており、原監督にクレしんの影響が根強く残っていることが伺えるでしょう。
 同様に、作品のテーマの1つに「家族」があると考えられます。
 クゥという変化が訪れたとき、家族はどう対応するのか。子どもの意思に、大人である親はどう向き合っていくのか。クゥとの出会いと別れを経験して、家族はどう変わっていくのか……。康一の家族は紗代子のそれとは違い破綻しておらず、クレしんと同じく「理想の家族」として存在しています。
 しかし、その「家族」は、きちんと機能したのでしょうか。
 クゥの危機(父親の腕を見つけ暴走してしまったとき)に真っ先に動いたのは、犬――オッサンでした。オッサンは家族の誰もがクゥを助けないことを非難し、単独でクゥを連れ出します。このことが、オッサンの死、つまりは家族の消失という結果へと繋がってしまい、引き換えに助けられたクゥも家族にはなりません。
 また、康一の危機(クラスでハブられてしまう)を救ったのは、家族ではありません。同じ立場に立たされていた紗代子です。康一は自分の問題を家族に打ち明けることはなく、おそらく、紗代子という少女がいたことも話すつもりはないでしょう。康一が求める存在は、家族ではなく紗代子なのです。
 これらのことは、「家族」をテーマとしつつも、ありがちな家族愛に終始していないことを示しています。家族は万能ではありません。限界があります。康一の父親は野原ひろしのようにスーパーマンではなく、康一はクゥが不安な中でもテレビカメラに浮かれてしまう普通の少年です。日常へと返っていく彼らは家族としてあり続けますが、そこにはやはり大団円とは違う何かがあるでしょう。
 あるいは、それが家族の新しい出発点かもしれません……。
 ちなみに、余談を2つ。
 1つ目は、オッサンが死んだとわかったとき、康一の妹の発言。ここは『死んじゃったの?』ではなく『どうしたの? どうして動かないの?』にしてほしかったような。年齢的にまだ「死」を理解していないと思うんですよね。カタツムリを食べられたときも、かわいそうだからというよりは自分の所有物を取られたことに対するショックを感じていたようですし。クゥとの別れは惜しんでいたため、逆にここの描写が引っかかりました。
 2つ目は、オッサンの最後の言葉が前の飼い主に向けられていたこと。康一家族はどうしたんだ……と思いつつも、彼らとの別れはクゥに割り振られてるんですよね。だからオッサンは「過去」を見ている。気になったんですが、まぁ仕方ないのかなぁと自分で納得して観ていました。

■リアルに描かれた人間性
 冒頭の侍に関してもそうですが、作中の人物は監督がパンフレットで語っている通りかなりリアルに描かれています。主な点は紗代子(康一)に対するイジメと、クゥに対する人間の反応。例えばクスクスと紗代子を笑うクラスメート、クゥという注目の的を隠していたことで康一を仲間外れにする友人、プライベートなどお構いなしに押し寄せてくる野次馬、オッサンが死んでいてもクゥを写メールで録り続ける群集、犬を撥ねたとわかると一目散に逃げていくドライバー、クゥに不思議な力がわかると排斥運動を始める団体……などなど。
 こうした行為は、しかし、単純に悪であるとは言えません。実際にそういった状況に際した人間が取りやすい態度を再現しただけです。クゥのことに関しては、原監督の言う通り、康一たち家族も立場が違えば同じようなことをしていたかもしれないでしょう。作品としての「クゥ」が訴えかけてくるようです。世界は優しいものじゃない。人々は己のエゴで動くだけだ。感情が人を動かすことなんて、ほとんどない……と。
 けれどリアルさを追求したからこそ、『救われる』という「非現実」が物語の中で生きてきます。「非現実」は、「夢」「希望」と置き換えてもいいでしょう。どうしようもなく人間に絶望しながらも、誰かを信じてやまない、信じられるはずだ、信じてみよう……。原監督自身の足掻きや、発せられる思いが伝わってきます。
 この辺りを強調しすぎると、ただのベタな教訓・説教モノになっちゃうんですけどね。子どもはそればかりだと飽きてしまいますし、大人はウンザリしてしまうので、バランスが難しいところです。結論として、そうした配合を自然と出来るクレしんは偉大だなぁと思ってしまったり……。
 ちなみに、ここでも余談を2つ。
 1つ目は康一の年齢です。作中でもパンフレットでも、具体的に小学校何年生であるかは説明されていません。おそらく、『×年生にしては……』という先入観を失くすためだと思われます。
 2つ目。個人的なことなんですが、紗代子をイジメているのが2人だけというのには違和感がありました。普通だったら、もっと大きなグループでやるはずです(でないと、イジメる側が異端視扱いされてしまいますし)。紗代子を庇うクラスメートがいるというのも何だか……。男の子サイドのイジメはリアルなんですけどね。最後は力比べで決着が付いちゃうところなんかもありがちで。『2学期になったら康一はイジメられるでしょう』という原監督の意見には異を唱えたいところですが……まぁ、ここは見解の違いでしょう。

■声優
 声優には、タレントや俳優など、声優を主な職業としない人物が当てられています。大人のキャラは大人が、子どものキャラは子どもがというコンセプトも徹底されており、従って子どもの河童であるクゥにも子役が配役されていました。以前に言った通り、「コードギアス」のV.V.役の方ですね。
 こうした素人を使うのはリスクを伴う(どこぞのジブリ作品のように)ものですが、「クゥ」については成功と言っていいでしょう。違和感なく聞くことができました。ほとんどの方が、下手でもなく、かと言って作りすぎてもいない自然な演技ができていたかと思います。特に康一の父親役である田中直樹(ココリコ)は、途中までそうだと気付かなかったほどに。ゴリ(ガレッジセール)は丸わかりでしたが。
 個人的に感心したのは康一の母親ですね。家族のまとめ役やギャグ、微妙な感情の変化など、多様な役割をうまくこなしていました。次点でオッサン……って、こっちは本職の方なんですけど(『キャッツ・アイ』の俊夫や『るろうに剣心』の蒼紫役で知られています)。やはり存在感が違いました。
 また、スタッフのお遊びなのでしょう、随所にクレしんのキャストが散りばめられていました。しんのすけ役の矢島晶子、ひろし役の藤原啓治、組長先生役の納谷六朗、アクション仮面役の玄田哲章、ミッチー役の阪口大助……などなど。モブの中にみさえ役のならはしみきがいたような気がしましたが、クレジットはされていません。聞き間違いでしょうか。それとも、願望からの空耳か……。
 こうした演出は、スタッフとクレしんの繋がりが依然としてあること感じられて嬉しいですね。

■ラストシーン
 個人的にはEDの後に、康一たち家族が日常に戻っていく――学校へ行くために家を出た康一が、何気なく空を見上げるだけでも1カット入れてほしかったと思うのですが……と、それもさて置き。
 ラスト、クゥは康一と別れ沖縄へ行き、河童の仲間である「キジムナー」と暮らすことになります。一見すると彼らの世界は平和へと回帰し、平凡なハッピーエンドで終わったかに見えますが、こここそに原監督の思想やメッセージ――パンフレットに書かれていた自然観に通じるものが感じられてなりません。
 なぜなら、クゥは結局、自然へと帰ることしかできなかったのだから。
 クゥは人間社会で暮らすことを拒否します。あるいは、拒否せざるを得なくなります。人との関わりのない土地に安息を求め、この先、康一たちと出会うことがあっても、人間の姿に化けてからだと言っています。これらのことが『自然と人間の断絶』を描いていると捕らえるのは、果たして穿った見方でしょうか。『人間にもらった名前だ』『人間の友達ができた』というクゥの言葉に救いがあるものの、違和感とでも言うべき感情は観終わった直後に生じ、だんだんとその大きさを増していきました。
 あぁ、これが、原恵一が原恵一たる所以なのだろうか……と。

■今後
 さて、いろいろなことを書いてきましたが、それでも「クゥ」が良作であることに違いはありません。公開時期の問題もあり興行収入的には振るわないかもしれません。しかし、業界の人の目には留まることでしょう。クレしんでの成功が認められたように。今後、原監督が「クゥ」からさらに飛躍することを切に願います。
 そして、公開のため泣く泣くカットされてしまったシーンがDVDで収録されますように……。どんな思いが詰まっていたのか、非常に気になります。ディレクターズカット版として出ないかなぁ。
 原作も機会があれば読んでみたいですね。原監督の手がどこまで加わっているのか。

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2007/08/04 16:31 | Comments(1) | TrackBack() | Review

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コメント

作画について言及するなら、絵柄の統一じゃなくて電車の作画の残念っぷりに言及しないと!ということでこちらでははじめまして。クゥの感想は僕も書きたいのですけど、sizuruさんの感想に反応したい箇所があったので、こちらに書き込ませていただきました。

>ラストシーン
についてなのですけど、これは僕は冒頭のシーンの反復だと思ってます。河童たちは冒頭のシーンで、すでに人間から拒絶されてるんですよね(斬られたのも干拓が原因だし)。つまりラストシーンにおいて河童と人間が離れて暮らすのも「断絶」の為の必要事実であり、それを補助するために作中においてさまざまな小断絶が描かれているのだと。描かれている小断絶については
・冒頭、河童に対して興味を示す父と主人公(男)VS母と妹(女)
・飼われている犬と主人公一家
・クゥの超能力に対して驚き逃げ出す人々と、超能力を知らずにクゥに近寄る人々の反復
等様々な局面で描かれていて、「いじめる/いじめられる」等物語の重要な設定に関わる断絶も存在しています。また、これを踏まえて、様々な人が言及している、視点が一定ではないという評価については、僕はこうやって断絶によって情報が分断された結果、一軸で見れない物語に対して混乱を引き起こしたのではないかと考えています。
それで、僕としては、原監督はこういったディスコミュニケーションの山の中で引き起こされる、一時のコミュニケーションの美しさについてクゥでは描いていたのではないかと思っていまして。例えば劇中で、「うそをつくのは人間だけだ」っていうクゥのセリフがあったのですが、否定的に感じられるその言葉も、ラストシークエンスで主人公の父親が自宅に集まったマスコミを騙さなければ、クゥは沖縄に行くことが出来なかった訳で。「嘘をつかない」河童が「嘘をつく」人間によって助けられるという
シナリオや、そのほかのシークエンスから(犬がクゥを助けるシーン等など)、「人々はそれぞれ求めるものはバラバラだけど、たとえそれが利益のためであれ、たとえそれが一時のものであれ、一緒に何かを達成することはかけがえのないものではないのだろうか」という、僕なりにあの映画からメッセージを感じ取りました。
ちなみに、あの映画において道というのはまさに「ディスコミュニケーション」と「コミュニケーション」を包括した存在であり、映画の内容を体現した舞台なんですよね。クゥの父親が殺された「別れ」の場所でもあり、主人公がチャリンコにクゥを載せてどっかに逝くための「出会う」ための場所でもあったりして、その舞台に込められた意味はかなり多様です。sizuruさんとしては、どの世代が楽しめるのか分からないということでしたが、僕としては道のシーンに込められていそうな様々な意味などから、あの映画は色々な世代の人が勝手に思い入れを抱いて共感できるようには作っていると感じました。じゃなければ、「オトナ帝国の野望」において、ヒロシの回想シーンによって象徴的に使われていたあの道で高度に共感できるおじさま方を否定することになりますし(笑)、僕はあの映画に出てきた道という舞台と、その上で繰り広げられる人間模様に対して好き勝手妄想して楽しんでいたので(笑)。

まぁ、僕とsizuruさんの映画の見方は大きく違っているので、適当に読み流していただければ幸いです。というか人のブログ欄で自己主張キモイキモーイ!あまりにもきもすぎたのでちゃっちゃと打ち切って退散することにしますわん。
posted by newat 2007/08/09 13:23 [ コメントを修正する ]
Re:ここに書き込むのは初めてですな
レス遅れました。コメントありがとうございます。
作画についてはあえて言及しません。なぜ電車をあんなショボいCGにしたかはわかりませんけど……まぁ、放っておくが吉でしょう。

確かに「コミュニケーション」「ディスコミュニケーション」というテーマはあるかもしれませんね。自分もそういったことを感じてはいたんですが、ただ、ラストシーンの舞台が沖縄であることに違和感を覚えました。
あれがどこかの山奥ならまだわかるんですよ、けれど沖縄というのは「日本であって日本でない場所」の象徴なので、クゥが行き着く先としてあそこを設定したのは、やはり全体として「断絶」を描いているんだと思います。『絶望ばかりじゃなくて希望もあるよ』ではなく、『希望はあるけどやっぱり絶望もあるよ』という。家族やクラスメートについても同様で……。
んー、何を言いたいのか自分でもわからないな。
自分とnew さんは見ているものは同じ(似ている)なんですけど、感じ方が違うのかもしれません。自分は、原監督は人間を肯定しようとしつつも、どうしようもなく否定しまうんだ……と感じました。作品としてのメッセージと、その背後にある真意は相反しているのかもしれないなぁと。
沖縄は、単純に監督の趣味かもしれませんけど。

「道」については……どうでしょう。クレしんと違って、あれは受け手に伝わったんでしょうか。ひろしの人生(キャラのバックボーン)を描いたことによって「道」は視聴者の共感に深く訴えることができましたが、「クゥ」では単に舞台として使われたに過ぎないような気がしてしまって。
長年積み重ねてきたキャラ性と1回こっきりのキャラ性という違いもありますが、オジサンたちの言う「ノスタルジー」を訴えるには少々インパクトがありませんでした。一般の視聴者は「舞台に込められた意味」まで読み取ろうとするでしょうか。それが伝わるのは一部のアニメファン・原監督ファンだけなんではないかと。だから『大衆向けではない』と評するわけです。
そういうこだわりは、個人的には大好きなんですけどね。

長々と書いてしまった上、まとまりがなくてすいません。否定してばかりでしたが、『人間はウソつきだ』に関する記述はなるほどなぁと思いました。まだまだいろんな見方が生まれてくるなぁ。おもしろい。
結局、周りには「クゥ」を観に行った人がほとんどいないみたいで……。何でかな。あれか、萌えがなきゃ見る価値がないってか。これだから……。
こういう議論をする相手が自分にはあまりいないため、new さんの存在は非常にありがたく思っています。これからも機会がありましたらよろしくお願いします。
2007/08/11 10:41

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