ココロノうちでの 第1-07話 「それぞれの夜」
ココロノうちでの まとめ
当初予想していた人物は、四回目になってやっと現れた。
もう立ち上がるのも億劫になっていたので、ドンドンという遠慮のないノックに相手の予測を立てつつ「空いてますよ」と返すと、のそっと顔を出したのはユウだ。両方の手に持っているのは、大振りのグラスとビールの三百五十ミリ缶、ピーナッツの小袋。風呂上がりなのか、頬はやや上気しており、長い髪は無造作にまとめられ、服装も半袖のティーシャツにデニム地のハーフパンツに変わっている。
「お前も飲むか?」
「……飲みませんよ」
それまでの三人と違って、ユウは部屋の中に入ってきた。「開けるぞ」と断りを入れてからカイの背後にある小さめの冷蔵庫を開け、「やっぱり、そのままにしておいたんだな」と言いつつ、中から冷えた缶を取り出し、持っていた缶と入れ替える。
「飲み終わったら、缶は持っていってくださいよ? 捨てるの面倒ですし、誰かに見つかったらなに言われるかわかりませんから」
「…………」
「?」
「『ください』……ね」
「……敬語を使うな、とは言われてませんから、ユウ先生」
カイはわざと「ユウ先生」と口にしたが、相手はそれに反応せず、向かいにある座椅子に腰を下ろした。ビールをグラスに注ぎ、一息で半分ほど飲み干してから、
「なにやってんだ?」
視線は座卓の上――カイの手元に向けられている。
「予習ですよ。明日、当てられそうなんで」
「そういうところから覚えを明るくしておきたいし、か?」
「……まぁ」
「真面目だねぇ」
冷やかすような口調のユウを怨めしく見つめるも、彼女は目も合わせようとせず、腰を浮かせてテレビの置かれているラックを開けた。中から据え置き型のゲーム機を引っ張り出し、手慣れた様子で配線を済ませて本体の電源を入れてから、「リモコンは?」と、ようやくカイに顔を向ける。答えの代わりに手元にあったリモコンでテレビを点け、ゲーム用のチャンネルに合わせると、起動画面が現れた。どうやら、目の前に勉強をしている生徒がいるというのに、自重するつもりはないらしい。
母屋の居間でやればいいのに、とは思ったが、そこには人がいるのだろう。母屋の居間に提供したためユウの部屋にはテレビがなく、「また今度にしてください」と抗議しても無駄なことはわかっているので、カイは諦めることにした。
「それ、まだクリアしてなかったんですか?」
「途中で止まってたからな。お前は?」
「一応。やれることはまだ残ってるみたいですけど」
「ネタバレすんなよ?」
「しませんよ」
コントローラーを握ったユウの視線は、テレビ画面に注がれている。
なるべく気にしないよう、縦に並んだ文字の羅列を黙読しつつ、カイは心の中でふっと息を吐いた。目の前には、ユウの横顔がある。
何とも奇妙な光景だ。
正確に言えば、この光景そのものではなく、現在の状況を含めて奇妙だった。ほんの数メートルほど離れた場所には、あれよあれよという間に同居が決まった女性がいる。それも三人。しかも、カイの通う学校の先生たち。
だというのに、今、この場にあるこの光景は、数ヶ月前と何も変わらなかった。自分がいて、ユウがいて、向かい合わせに座っていて、夜で。
そして、この状況に導いたのは、他ならないユウなのだ。
それが、何よりも奇妙だった。
「ご感想は?」
しばらくは、机に広げた教科書に没頭できていたらしい。ユウが話しかけてきたことに気付かなかった。
カイが反応しないでいると、「ビール」と短く言われた。「飲み過ぎないでくださいよ」と一応苦言を呈しつつ、体を捻って冷蔵庫を開け、お代わりを手渡す。空になっていたグラスをビールで満たし、溢れかけた泡をなめてから、ユウは口を開いた。
「夢のようだろ、年上の女の人に囲まれて生活できるなんて」
あくまで、ユウの口調は軽い。
「一介の男子高生には、垂涎ものの環境じゃないか?」
「俺も、一介の男子高生のように喜んでいると」
「……違うのか?」
カイはそれに答えず、ユウの目を見据えた。
「他に、方法はなかったんですか?」
見つめ返してきたユウに怯まず、カイは続ける。
「任せるって言ったのは俺ですから、俺は受け入れます。どんな状況になっても文句は言えませんし、言うつもりもありません。でも、他の人を巻き込むなんて……」
「…………」
「ユウ、」
「……『ユウ先生』、だろ?」
ユウは目を逸らし、グラスを持ち上げた。ごくりとノドを鳴らして、袋からつまんだピーナツを口に放り込む。ゲームにはポーズがかけられていた。画面から流れる音に耳を澄ませるように、ユウはまぶたを閉じると、
「優しくしてやってくれないか?」
「え?」
「あいつらに。慣れてないんだよ、こういうことにさ」
「……いいんですか? 優しくしても」
吐息とともに、カイは声を絞り出す。
「俺だったら、耐えられない」
「あたしは平気だ。……あの三人なら、な」
ぽつりと呟くと、ユウはズボンのポケットを探った。カイは何かを言いかけたが、それを遮るように「あー、」と言葉を継いで、
「言い忘れてたが、夕飯のときのリンだけどな、」
「もういいですよ、それは。ユウ先生で四人目ですし」
「何だ、あいつらからも言われてたのか」
「……仲、いいんですね」
「まぁ、ガキのころからいっしょだからな」
言いつつ、ポケットから取り出したのは、くしゃくしゃになったタバコのパッケージと百円ライターだった。一本を口にくわえようとしている。当然ながらカイは吸わないので灰皿はここにはないが、空き缶を代わりにするつもりらしい。
先ほどまでのムードを払拭できるよう、カイは声を張り上げた。
「外で吸ってください。言いましたよね、ここは禁煙だって」
返ってきたのは不満顔。何度も見てきたので、これくらいでビビりはしない。勉強の手は止まっており、その時間を費やしてもわだかまりは解消できなかったが、こうしてユウと普通に話ができていることに、どうしても喜びを抱いてしまう。
それは、ユウも同じなのだろうか。
問うことができないままに、両者のニラみ合いは続いていく。
一方、母屋の居間。
畳の上に台を置き、リンは衣服にアイロンをかけていた。傍らの座卓には、家計簿をつけているミナ。向かいには小さな姿のままのサエが座り、分厚い通販のカタログを広げている。座卓には、ミナが淹れた緑茶が三人分並んでいた。
サエが着ている服も、アイロン台に乗っている服も、その隣でキレイに畳まれて重なっている服も、以前の部屋からサエが持ってきたものだ。いずれも子ども用のサイズで、わざわざ用意していたらしい。ただ、どれも洗いざらしだったので、「アイロンかけてあげるから、今出せるだけ持ってきて」とリンがサエに言い渡し、ついでに、古くなったものを処分して新しく買い足すよう、カタログで探させていた。当のサエは、衣服に頓着しないので渋々といった様子ではあったが。
仲間内では、サエが子どもの姿を気に入っていることは知られていた。ただ、自分たちの与り知らぬところで、いつの間にか小さくなっていたのは気にかかる。
「まさかサエ、あいつに何かされてないでしょうね」
聞かれたサエは、きょとんとしている。向こうから説明してくれないため推察するしかないものの、少なくとも強引な行為を受けたわけではないようだ。
「カイくんはそんなことしないと思うけど……」
ミナもそう思ったらしい。が、簡単に信用してしまうのはいかがなものか。相手は生徒であろうと男だ、警戒するに越したことはない。
「どうだか。あの年の男なんて、なに考えてんのかわかったもんじゃんないわよ。サエには手を出さなかったとしても、今はネコ被ってるだけかもしれないし」
「でも、いい子だよ? 授業態度はいいし、テストはいつも平均以上だし」
「そのことと、これからいっしょに生活していくことは関係ないでしょうが」
「それはそうだけど……」
しゅん、としょげたように俯くミナを見ても、言い過ぎたと悔いる気持ちはない。確かに、今のところ、カイは悪い人間――「悪い」にはいろいろな意味があるが――ではないと判断していいだろう。しかし、頭のどこかに引っかかっていた。ついさっき、二人きりで話したときの、あの、落ち着き払ったような態度。考えてみれば、今朝から、いや、同居が決まってからの、学校での様子にしてもそうだった。
疑問が頭から離れない。どうして、
「あんなに、普通でいられるんだろう」
考えているうちに、言葉が漏れてしまったらしい。
「それが、お夕飯のときに聞きたかったこと?」
ミナにも聞こえていたようだ。おまけに、彼女の指摘は的を射ていた。無防備な言動を見られていたことよりも、カイの普通さを不思議に思っていること――裏返せば、自分が普通ではいられないこと――と、しかもそれを、寸前で留まったものの、本人に尋ねようとしていたと知られたことに気恥ずかしさを覚える。
わざとらしく咳払いをすると、「ともかく、」とリンは仕切り直した。
「ユウにとってはイヤだったんでしょうね、よっぽど。あの子個人に対してなのか、男の人なら誰が相手でもなのか、それとも、どういう形であれ一族の言いなりになることなのか……どれかはわからないけど」
「だから、わたしたちを巻き込んで……?」
「じゃない? 四人で割れば、負担も減るって考えて。今さらどうこうしたところで状況は変わらないから、もう文句を言うのはやめにしたけど。さすがに、小さくなったあたしたちに危ないマネするようなやつを引き合わせたりはしないだろうし」
そのユウは、お茶に誘ったときは部屋から応答がなかった。風呂場の明かりはすでに消えている。携帯電話で呼び出すほどではない。
大方、もう寝ているか、コンビニにでも行ったと思っていたが、
「ここにいたか。揃ってるな」
ウワサをすれば影。突然、ふすまを開けて入ってきたのはユウだった。なぜか、片方の手でカイの手首を掴んでを引っ張っている。カイは抵抗しようとしているようだが、リンは意に介さず、もう片方の手でタバコの箱を掲げた。
そして、一言。
「カイが吸おうとしてたぞ」
「ちょ、ちょっと、ウソついたまま行かないでくさい。フォローしてくださいよ」
生徒の非行を見逃すわけもなく、ミナとリンはカイに詰め寄ってきたが、ユウはこの展開へ誘導できたことに満足しているらしい。禁煙令を出しただけで報復のためにここまでするかと思うが、ここまでするのだ、ユウという女は。
カイの静止も聞かず、手を離したユウは、用は済んだとばかりに踵を返す。女性二人に詰問されて、たじたじになっているカイに近づくと、彼のズボンのポケットにタバコとライターをねじ込み、他の二人に聞こえないよう小声で、
「ちょうどいい機会だからやめる」
それだけ言って立ち去っていった。「だったらこんなことしないでください」と文句を言う暇もなく。まして、「お休みなさい」などと。
「いや、だから、これはユウ先生のなんですよ。ほら、銘柄がそうでしょ?」
懸命なカイの弁解が続きつつ、初めての夜は更けていった。
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