ココロノうちでの 第1-02話 「そもそもの発端」
ココロノうちでの まとめ
放課後の学校。
薄暗い廊下は、しんと静まり返っていた。
各クラスの教室がある南校舎に対して、こちら側――北校舎は、各科学室や書道室など専門の教室が収まっている。この時間帯に利用者はいないらしく、人通りはない。電灯も点いておらず、まだ日は沈んでいないのに肌寒さを感じた。遠くからは、時折、調子っぱずれな楽器の音色や、運動部の掛け声が聞こえてくる。
カイは一人、そうした喧噪から離れて、校舎の一階を歩いていた。
突然、呼び出しがあったのは昨日だ。
二人の間で取り決めをしたわけではないが、気まずさや後ろめたさから、あれ以来、お互いに連絡を取り合っていなかった。授業中以外に個人的な言葉を交わすことはなく、学校の外で落ち合うことも、もちろんない。
そこに届いた、久しぶりのメール。
待ち望んでいた知らせではあるものの、その内容は、日時と場所を指定しただけの簡素なものだった。呼び出しの理由も書かれていない。
ただ、予想はできる。
あの日、「任せる」と言ったのはカイで、相手はそれに応じた。「しばらく時間がほしい」とも。今日の呼び出しは、その結果を伝えるためだろう。
彼女のことだから、事態を好転させる妙案を思いついたはずだ。何も思いつかなかったという返事はあり得ない。まして、考えることをやめるなんて。
本来ならば、期待に胸躍らせるべきだった。
しかし、メールを受け取った途端、反射的に抱いた不安が拭いきれない。あの人の思いつきでロクな結果になったためしがなく、ヘタをすると今回も、厄介な目にあうのは自分ではなかろうか。今が、ゴールデンウィーク目前という、時間の余裕ができる時期であることも、何かしらの思惑があるのではと勘繰ってしまう。
けれど、向かわないわけにはいかなかった。
それを承知の上で、「任せる」と言ったのだから。
「コンコン」
待ち合わせ場所――階段のすぐ隣にある職員用の更衣室に着いたカイは、大きく深呼吸をすると、遠慮がちにドアをノックした。中からは、「入っていいぞ」という、素っ気なくも、懐かしさを感じさせる声。
誰も見ていないことを確かめてから、部屋に入り、ドアを閉める。
「早かったな、間宮」
待っていたのは、ユウだった。
腰まで届く長い髪。ハーフフレームのメガネ。お決まりのパンツスーツ。ローヒールの靴を履いているのにカイよりも上にある頭。年上ではあるが、十分にまだ若いと言える女性が、教室の四分の一もない狭い部屋の中央に佇んでいる。
「遅れると、先生になに言われるかわかりませんから」
ユウは、カイのことを「間宮」と呼んだ。授業中と同じ呼び方で。
二人きりとは言え、校内なのだから用心に越したことはない。そうした意図だと判断したカイも敬語を使い、余所行きの呼び方で彼女を呼んだ。「先生」と。
榊原勇。この学園の数学教師。
そして、カイは、この学園の二年生。
「にしても、こんな部屋あったんですね」
「まぁ、普段は使われてないからな。密会するには最適だろ?」
言いながら、ユウはイスを勧め、自身も腰掛けた。粗末なパイプイスだ。
彼女の言う通り普段は使われていない部屋らしく、折り畳まれたイスがいくつか窓際に立て掛けられている以外、室内に余計な物はなかった。机もなく、ゴミ箱すらない。壁一面に備えられたロッカーが、一応は更衣室という体面を保っている。そのロッカーにしても、所々錆が浮いていて、とても快適な場所には思えなかった。
なるほど、内緒話の場にはおあつらえ向きだ。
「とりあえずは、進級おめでとう、か?」
「あんまり実感わきませんけどね。教室の場所が変わったくらいで」
「そっちの部にも入ったんだろ? 後輩」
「幸いなことに何人かは。ただまぁ、活動があぁですから」
「こっちにも大して来てないくせに」
「引き続きパート部員なんで。……っていうか、マメに顔出してるんですか?」
「最初のうちはな。でないと、新入生に顔も覚えられないだろ」
「……一応、気にはしてるんですね、そこら辺」
他愛のない会話だった。一ヶ月ほど途絶えていた、互いの近況報告。
それだけで嬉しさを感じてしまう自分がいる。自然と顔が綻びそうになり、延々とこの無駄話を続けようという思いすら芽生えたが、懸命に押しとどめた。わざわざこんな場所に呼び出したのだから、本題はこんな話ではないはずだ。
「さて、と」
そう思っていた矢先、ユウは立ち上がった。
指で合図をされ、それに従って、カイも立ち上がる。と、
「っぷ」
いきなり、抱きしめられた。
腰の辺りに両腕が回され、強引に体が引き寄せられる。身長差があるので、相手の肩口辺りに顔が埋まった。スーツに収められていても十分にボリュームのある胸部や、細くても柔らかな腰部が押しつけられる。衣服越しに伝わる、体温と心音。
そのまま、数十秒が経過しただろうか。
今さらこれくらいで驚きはしないが、多少戸惑いはする。しばらく待っていれば「なんてな」と冗談めかして笑うかと思ったのに、それもなし。もぞもぞと抵抗を試みても一向に離してくれる気配がないので、恐る恐る尋ねてみる。
「……話があるんじゃなかったんですか?」
「話をするだけが『用』じゃないだろ?」
「誰かに見られでもしたら、」
「誰も見てない」
なぜか、ユウの攻めは執拗だった。
足と足がからみつく。肌と肌がこすれ合う。指先が優しくうなじをなでる。髪の先があごに触れる。吐息が耳に吹きかけられる。タバコの香りが鼻をくすぐる。
端から見れば、立派なラブシーンだった。そこのドアから誰かが入ってきたら、一発でアウトだ。どんな言い訳も通用しそうにない。
ふっと気が緩み、このまま彼女の抱擁を受け入れてしまいそうになった。自分もユウの背中に手を回して、力一杯抱きしめようという衝動に駆られる。
けれど、状況がそれを許さなかった。
場所のことではない。あれ以来、何の変化も進展もない、二人の関係のことだ。
あのとき、カイとユウが望んだ結果は得られなかった。決意は挫かれた。だから、触れ合うことに躊躇いを覚えるようになった。そのはずだ。
なのに、ユウはそれを飛び越えてきた。唐突に。確信もないはずなのに。
「カイ」
耳元で、ユウがカイを呼ぶ。本来の呼び方で。
気が付けば、ユウの顔が目の前にあった。カイを見つめる、メガネ越しの瞳。ユウの両手がカイの頬を包み、あごが上に向けられ、赤いルージュの引かれた唇が、ゆっくりと演出がかったスローモーションで、カイの口へと近づいていく。
そして、
「ぽんっ」
破裂音が響いた。
一つではない。複数――三つ、立て続けにだ。
あっけに取られているうちに、ユウの体はカイから離れていた。彼女の姿は変わっていない。音が鳴った方向も違う。聞こえたのは、背後のロッカー。よく見れば、消えきらなかったのか、それぞれの隙間から煙が漏れている。
カイが振り返るのと同時に、ユウはロッカーを開けた。間髪入れずに、三つ。
「えっ……? えっ……?」
「な、な、な……」
「…………(ぺたぺたと手の平で自分の体を確認している)」
中から、三人の小さな女の子が転げ出てきた。
体のつくりからして幼児にしか見えない彼女たちは、いずれも、ぶかぶかの衣服を着ている……というより、体に引っかけている。ほとんど半裸状態だ。その他に音が鳴るようなものは、当然のごとく出てこない。
三者とも、この事態に面食らっているらしい。ある者は慌てて衣服をかき集めて体を覆い隠し、ある者は衣服を拾いつつも厳しい目をユウに向け、またある者は――彼女だけはマイペースに、ほけーっとカイとユウを見比べている。
「見たな?」
「……え?」
「見ただろ? あの三人」
「は、はぁ」
頭は混乱したままだ。あまりの急展開に、思考が追いつかない。
ユウがこの場に呼び出した目的は何なのか。あんなことをした理由は何なのか。目の前にいる女の子たちは誰なのか。あの破裂音は、まさか。
疑問が渦を巻き、ユウの質問に答えたのも、ほとんど無意識だった。
が、相手はそれで満足したらしい。この場にいる面々の顔を順繰りに眺め、ふむ、と頷くと、長い腕を伸ばしてカイの両目を手の平で覆った。あられもない彼女たちの姿と、散らばっている衣服をこれ以上見るな、ということだろう。
その寸前、カイは見逃さなかった。
もう片方の手が、小さくガッツポーズをしていることを。
その後、目をつぶったまま退室を命じられた。
ドアの前で待つように言われ、抗議しようという気すら起こらずに大人しくドアへもたれかかる。室内から聞こえてくるのは、再び鳴った三つの破裂音と、脱げた服を着直していると思しき衣擦れの音、やや険しさを含んだ女性たちの話し声。校舎の隅にあるこの部屋でこんな事件が起こっているなんて、誰にも想像できないだろう。
だんだんと落ち着くにつれ、事態が飲み込めてきた。
つまりユウは、この展開に持っていくために行動を起こしたのだろう。そのための呼び出し。そのための場所。そのための抱擁。そのためのロッカー。聞き慣れた破裂音が鳴ったことで、あの女の子たちがどういう存在なのか見当もつく。
彼女たちの姿を目撃してしまったことによって、自分はこの先どうなるのか。そこまでは予想できないが、ユウの思いつきはロクな結果にならないといういつものパターンが踏襲されてしまったことはわかる。
イヤな予感は当たった、ということか。
「入っていいぞ」
しばらくして、ユウから声がかかった。
中へ入ると、ロッカーは閉まっていた。イスも片付けられている。衣類も散乱しておらず、先ほどの女の子たちの姿もない。
代わりに、ユウの隣に三人の女性が立っていた。
いずれも、カイよりも年上に見え、この年齢の男子としては平均的な身長であるはずのカイよりも背が高く、はっきりと覚えているわけではないが、先ほど散乱していた衣服を着ているようだ。狭い部屋に五人、しかもほとんどが長身のため、彼女たちから離れた出入り口に立っていても圧迫感を覚えてしまう。
「……それで、」
ユウ以外の三人は自分を注視しており、何を言えばいいか戸惑っていると、腕組みをしていた女性が口を開いた。ちら、と一瞬ではあるが剣呑な目をユウに向け、
「ユ、……榊原先生、理由を説明して……くれませんか?」
やはり、ユウには何も聞かされていなかったらしい。他の二人も同様のようで、彼女たちもユウの思惑に巻き込まれた被害者という認識でよさそうだ。
しかし、当のユウに悪びれる様子はまったくない。鷹揚な仕草で「まぁ、待て」と彼女を制し、カイに向き直った。「間宮、」とカイの呼び方を戻し、
「この三人が誰だかわかるか?」
「……あ、ええ。そりゃあ」
女の子はわからなかったが、今ならわかる。
「言ってみろ」
「大石先生、等々力先生、小田切先生……ですよね?」
カイから見て右から順番に、女性の名前を「先生」という敬称つきで述べていく。大石は、肩まで髪を伸ばした女性。等々力はそれより長め。小田切は短め。スカートスーツを着た三人は、ともに学園の教師であり、去年から何度も授業を受けていた。さすがに、彼女たちの顔と名前を違えるほど不心得者ではない。
「で、さっきのちっちゃい三人組が誰かはわかるか?」
再度、ユウの質問。
それを確認することで、ユウの計略はさらに進展するのだろう。その目的も説明されないままに唯々諾々と従うのはシャクだが、答えないと話が進まなそうだ。そこの窓から女の子と先生が入れ替わった、などという誤魔化しも通用しない。
一度だけ息をつき、ユウを見据えて、カイは言った。
「先生たちが変わった姿、ですか」
「正解」
口の端だけで、ユウは笑う。腕組みをしていた女性――等々力は、敵意を隠そうともせずにそんなユウをニラみつけた。大石はおどおどとユウとカイへ交互に視線を向け、小田切は、じーっと興味深げにカイを見つめている。
「さて、順番は逆になったが、これで、お前たち三人が小さくなったことが目撃されたわけだな。ここにいる、間宮海に。間宮はもちろん男、だよな?」
「……そうですね。異性です」
カイが答えると、等々力は、ユウへの敵意をそのまま彼に向けた。こうなった要因はお前にもあるんだ、とでも言わんばかりに。
カイは一瞬たじろいで弁明の言葉を探したが、やがて彼女は深々とため息をついた。怒っていても仕方ないと諦めたのかもしれない。
「……わかったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」
肩を落とした等々力は、脇にどいたカイの前を通り過ぎ、部屋を後にした。
彼女がどこへ向かったのかは察しがつく。そのときの相手は等々力や他の二人ではなかったが、以前にもカイは同じようなことを経験していた。
彼女は報告をするために向かったのだ。
彼女――彼女たちのお目付役のところへ。
「ま、間宮くん」
等々力の背中を見送っていると、声がかけられた。カイにとって、校内では一番身近な教師である大石が、緊張しているのか頬を赤くしている。当たり前かもしれないが、彼女も自分の名前を覚えていたのか、と関係ないことを考えていると、
「ごめんなさい」
それは、何に対しての謝罪なのか。
ともかく、大石は深々と腰を折り、等々力を追っていった。
それを契機に、他の二人も部屋を出て行く。普段からそうした傾向があるものの、この場で一言も発しなかった小田切は、最後までカイから目を逸らさずに。首謀者であるユウは、カイの背中を軽く叩いて「後でな」とだけ言い残して。
こうして、カイは取り残された。
部屋に静寂が訪れる。
これで、五人にとっての事件が終わったわけではない。むしろ始まりだ。ここ一ヶ月と少し、束の間のように訪れていた平穏は終わりを告げ、再び慌ただしい日々が押し寄せてくる。抗いようもなく。自分や、それ以外の様々なものを巻き込んで。
今後の顛末を想像し、カイは一人、疲れたように息を吐いた。
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