ココロノうちでの 第1-03話 「はじめての言葉」
ココロノうちでの まとめ
カイの家は、学校から徒歩圏内にある。
数世代前からある古い家だ。瓦屋根の一軒家。二階のない平屋建て。ほぼすべて畳敷きの部屋。代々の家主が「手入れが大変だ」とグチをこぼしたらしい、だだっ広い庭。最近になって周りに増えてきた建て売り住宅と比べると、敷地面積も住居の大きさも、時代に取り残されたようなその風貌も、一線を画していた。
いろいろと理由があって、カイはここで一人暮らしをしている。
ただ、この家屋――母屋自体はほとんど使っていない。一人では広すぎるのだ。収納スペースに困るほど物を持っているわけではないし、広い家に自尊心が満たされるわけでもない。母屋が無人でも、それを管理さえしていればいい。
そういうわけで、実質的な生活の場は、敷地内に建てられた離れになっている。
結婚や就職によって相次いで娘たちが家から離れ、母屋が広いことに不便さよりも寂しさを感じた祖父によって建てられた小屋だ。生前は、物置兼書斎、時には奥方とともに生活の場として利用していたと聞く。
八畳一間、風呂・トイレ・キッチンなしと、母屋と比較するまでもなくこぢんまりとした作りではあるものの、カイにはこれで十分だった。電気や水は通っている。ネットも引いた。テレビもあれば、小さいながら冷蔵庫もある。物干し台も近くに設けた。元々、老夫婦にも使いやすいように作られてはいたが、手を加えたことで利便さが増し、日常生活の多くはここだけで事足りるようになっていた。
風呂やトイレ、郵便物の受け取り、たまの自炊、それ以上にたまに帰ってくる家族を迎えるとき。母屋を使うのは、せいぜいそれくらいだった。空いている部屋は荷物置き場にすることもなく、持て余すばかりだ。
しかし。
一人にとっては広すぎる家も、五人ならばどうか。
「……というわけで、」
あれから半月ほど経った五月頭。ゴールデンウィーク最後の日。
午前中、バラバラではあるが同じ時間帯にカイ宅へやって来た四人の先生は、事前に宅配便で届けておいた荷物の搬入を終え、休憩がてら、カイを加えて母屋の居間に集合していた。座卓についた面々の前には、それぞれウーロン茶が置かれている。カイが普段使っている容器では人数分が揃えられず、荷ほどきもまだ終わっていないので、コップやグラス、湯飲み茶碗など、形は不揃いではあったが。
昨日のうちにカイが掃除しておいたため、居間は片付いている。ただ、手をつけられたのは、ここ以外では風呂とトイレ、洗面所兼脱衣所、せいぜいが隣室の台所くらいで、その他の部屋は放置したままだ。時折、蔵書の虫干しをするために足を踏み入れることはあっても、極力、室内の惨状は直視しようにしていた。
日にちをかければカイ一人で掃除して回ることもできたものの、「どうせ自分たちでもすることになる」というユウの進言によって免除され、午後からは各自が清掃に当たることになっている。掃除機などは、各々、前の家から持ってきているだろう。
「いろいろと説明する前に開けろと言われたので、開けます。……イヤだけど」
そう言って、面倒そうに立ち上がったのは等々力だった。
今は、動きやすいラフな格好をしている。他の三人もだ。大石や等々力は、カイ宅へ来た当初は、正装とまでは行かなくとも多少かしこまった服装をしていたものの、荷物を運んでいる途中で諦めたのか、現在の服に着替えていた。
「初日まで開けるなって言われたから、あたしも初めて読むんだけど……」
等々力は茶封筒が握っており、その表には、大仰な字体で「指令書」と手書きされている。先生たちだけではなく、カイにも向けられた指令だ。
書いて渡したのは、彼女たちのお目付役だろう。残念ながら用事があるからここに来るのは無理と等々力が説明したが、それならば電話かメールで済むところを、わざわざ芝居がかった方法を取るところがいかにもあの人らしい。
「……げ、」
問題の封筒を開け、便せんを広げた等々力は、すぐさま表情を曇らせた。カイ以上にあの人の性格を理解しているだろうから、ある程度予想はしていたはずなのに、それでも顔に出るほどイヤな内容だったらしい。
さりとて無視するわけにもいかず、渋々といった様子で文面を読み上げる。
「指令その一。……家ではすっぴんでいること」
「え、」
真っ先に反応したのは、一番遠い位置に座っている大石だった。
正確には、反応したのは彼女だけだ。ユウは到着した時点でさっさと化粧を落としていたし、小田切は、一応化粧はしているものの、我関せずといった様子で持参した煎餅をかじっている。カイはもちろん、化粧はしていない。
「これって……しなきゃいけない、のよね。そうよね……」
しばらく逡巡していた等々力だったが、命令には逆らえないようで、ぶつぶつと自分に言い聞かせながら退室した。カイに視線を向けながら、大石もそれに続く。立ち上がる様子のなかった小田切は、戻ってきた等々力に引っ張られていった。
数分後。
指令通り、洗面所で化粧を落としてきた三人が戻ってきた。
顔を隠したりはしないまでも、大石と等々力はカイの目を気にしているようだ。今の服に着替えてきたときと同じように、どこか恥ずかしそうな顔をしている。すっぴんになることそのものよりも、その顔をカイに見られるのがイヤなようだ。
とは言っても、当のカイには、具体的にどこがどう変化したのかはわからない。フォローの意味もあって「全然変わってませんよ」と言ったのものの、それはそれで神経に障るらしい。等々力にひとニラみされ、それ以上は何も言えなかった。
「えー……」
一つ目の指令ですっかり疲労困憊になった等々力は、再び指令書を手にする。
そして、またも苦虫をかみつぶしたような顔。
今度はカイにも効力のある内容らしく、隣のユウを経由して渡される。曰く、
「指令その二。お互いを名前で呼び合うこと」
やっぱりか、というのが正直な感想だった。
前回と同じ指令だ。どうせまた今回も、と想定はしていた。どうもあの人は、名前で呼び合う行為に特別な意味を見出しているらしい。
確かに、「大石先生」「等々力先生」などと学校と同じ呼び方をするよりも、名前で呼んだ方が親近感はわくかもしれない。指令という強制力がなければ、いつまで経っても「○○先生」から脱却できないような予感もする。
だが、年上の女性、それも教師を名前で呼ぶことにはかなり抵抗があった。
しかも、今回は同時に四人だ。
先生たちも同様のようで、お決まりの大石・等々力の二人は、「これはちょっと……」と難色を示している。やはり、数日前まではいち生徒に過ぎなかった男子と名前で呼び合うのは、いくら指令とは言え躊躇われてしまうのだろう。
「その前に、自己紹介でもした方がいいんじゃないか?」
三人が頭を悩ませていると、小田切のご相伴にあずかって煎餅をかじっていたユウが提案した。考えてみれば、お互い、下の名前までは記憶していない。
誰から始めるか、顔を見合わせていた大石と等々力とカイの内、たまたま二人の視線が大石にぶつかった。笑顔になって、彼女が先陣を切る。
「じゃあ、わたしから。大石美奈です。よろしくお願いします」
続いて、
「等々力琳。……よろしく」
「…………」
「…………」
「ほら、あんたたちも」
「んー? 榊原勇」
「……小田切冴」
先生たちの自己紹介が終わり、その目がカイに注がれる。
「ま、間宮海です。よろしくお願いします」
緊張とともに言いながら、カイは以前、タクに参加させられた合コンを思い出した。あのときも、始める前に、こうして各々が自己紹介していたはずだ。
けれど、目の前にいる四人は、あのときの女性たちとは違う。
一期一会では、ないのだ。
「で、名前よね、名前。学校みたいに『間宮』じゃダメと」
「そう、なるよね……。えーと……」
なおも大石と等々力が尻込みしていると、ふと、小田切が煎餅に伸ばしていた手を止めた。カイを見つめ、「何ですか?」とカイが問う前に、
「カイ」
躊躇いなく、口にした。
突然だったのでカイが狼狽している中、相手は、「何か間違ってる?」と小首をかしげている。そして、言葉にはしないが、目で訴えかけてきた。
『こっちは呼んでくれないの?』
と。
「あーと、そのー……」
しかし、何度も言うが、向こうは年上の女性。授業を受けている先生なのだ。
苦慮の果て、カイは等々力に対して、
「あの、『先生』をつけちゃダメでしょうか?」
「先生? 名前の下に?」
「まぁ、指令書にも『呼び捨てにしろ』とまでは書かれてないしな」
と、これはユウ。
「そうね。問題はない、か」
「なら……サエ、先生」
カイに名前を呼ばれて、小田切――サエは、どことなく満足げに頷く。
「わたしたちも、呼び捨てじゃなくていいんですよね? じゃあ、『カイくん』で」
「あ、はい」
「…………」
「……わかりました、ミナ先生」
照れたように笑う大石――ミナ。
残る一人――等々力は、眉間にしわを寄せながら、「『カイ』……『カイくん』……」と、小声で繰り返していた。その感触を確かめるように。
ややあって、顔を上げ、
「私は、『カイ』にするから」
そう宣言する。カイのことは、横目に見ただけで。
それに対して「リン先生」とカイが返す暇もなく、すぐにユウへ目を移し、
「榊原先生は?」
「……『お互い』ってのは、あたしらとカイだけのことじゃないだろ」
「はいはい。で、ユウは……『カイ』でいいのね」
さきほどと比べるとあっさり「ユウ」と口にして、彼女にも確認を取る。
これにて、二つ目の指令は達成。
小さく嘆息し、等々力――リンは、続きを読み始める。
「指令その三。食事はなるべくみんなで食べること。……これは、まぁ、」
言いつつ、リンはミナを見やる。
「うん。最初からそのつもりだったし」
「みんなって、」
「カイくんの分も作りますから」
「……いいんですか?」
「もちろん」
問いかけるカイに、ミナは笑顔で肯定する。
「指令その四。勝手に学校を替えないこと。要するに、逃げるなってことね。って言っても、そう簡単に職場は変えるつもりはないし。……も、ないでしょ?」
「え?」
「だから、……カイも、ないでしょ?」
「は、はい。ありません」
カイの同意によって、四つ目までは終わった。
次は、
「最後。指令その五」
言ってから、リンは深々とため息をついた。
指令書を見て、目をつぶり、もう一度指令書を見る。読み間違えではない。書き間違いでもない。そのことを確認したのか、観念したように口を開く。
事務的な口調で、リンは告げた。
これだけは、前もって知らされていた指令を。
「五人で、いっしょに暮らすこと」
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