ココロノうちでの 第1-19話 「彼女の抱擁」
ココロノうちでの まとめ
その日の夜。
カイ宅の離れには、いつものようにユウがいた。
ただ、今日はゲームはやっておらず、座椅子にもたれて文庫本を開いている。テレビを使わないのならばここにいる理由もないのでは、とは思うものの、彼女の気まぐれに反抗できないことはわかっているので、口には出さない。
その向かいで脚本検討の続きをやっていたカイは、ふと思い付いて顔を上げた。ユウがページをめくるタイミングを見計らって声をかける。
「ユウ先生、」
「んー?」
生返事ではあるものの、一応こちらの言葉は聞こえているらしい。
「先生たちの中で、お菓子作りが得意なのって誰ですかね」
この質問は、当然玲美の頼みを受けてのものだった。これまでに作ったお菓子も好評ではあったが、料理上手が身近にいるならば助力を請わない手はない。
ちなみに、ユウもその気になれば作ることはできる。しかし、目の前にあれば手を伸ばす程度で、それほど甘いものが好きではなかった。自作してまで食べることはなく、カイが作ることを知っていてもアドバイスすることはなかった。
「それならミナかリンだな。どっちも上手いはずだ」
半ば予想通りの答えを返してきたユウは、しおりを挟んでから本を閉じた。背を座椅子に預けたまま、ちらりとカイに視線を投げかけると、
「また作るつもりか? で、どっちかにご教授願いたいと」
「できれば」
「また姫様におねだりされたんだろ」
姫というのは玲美のことだ。お互いに面識はないものの、彼女とカイの関係は、彼から説明したためユウも知っている。
「まぁ、そうですけど……」
カイが肯定すると、「ふーん」と頬杖をついたユウは、そのまま押し黙ってしまう。テレビを点けたのに、番組に顔を向けようともしない。台本をめくる手も止まり、睨め付けるような視線に、カイはたじろいでしまう。
彼女が口を開いたのは、しばらく経ってからだ。自分の隣を指し示して、
「こっち」
と、一言。そこへ来いという意味だろう。
カイが机の向こう側に回ると、今度は「肩」とだけ言われた。要するに揉めと言われているのだ。返事をする前から、机に向かった座椅子は動かさず、背中だけをこちらに向けている。拒否権はないらしい。
「はいはい」
渋々、カイはユウの背後に膝を立てる。
邪魔にならないよう、ユウが長い髪を胸側に垂らすと、普段は隠れて見えない白いうなじがむき出しになった。思わずどぎまぎしてしまうが、躊躇ってばかりもいられない。背丈の割に華奢な肩に手を置き、加減しつつ力を加え始める。
「こんなもんですか?」
「もう少し強くていい」
「へーい」
凝っていることは凝っているものの、ティーシャツ越しの肩は、どきりとしてしまうほどの柔らかさも持っていた。本来、女性ならばシャツの下にあってしかるべき感触がないところからすると、つまり、そういうことなのだろう。今日だけでなくいつもそうだと見当はついていたが、改めて意識してしまう。
そうして肩を揉み続け、握力のなくなった手が悲鳴を上げ始めたころ、こちらの状態を察したのか、はたまた単に満足したのか、「それくらいでいいぞ」と放免された。やれやれと腰を浮かせたカイは、相手が振り返っていることに気付く。
彼を見上げたユウは、さらりと思いがけないことを言ってきた。
「お前にもしてやろうか?」
「はぁ?」
「凝ってるだろ?」
「そりゃまぁ、凝ってはいますけど……」
「ん」
ユウは立ち上がり、ぽんぽんと自分の座っていた座布団を勧めてくる。
好意を断るわけにもいかず、何より貴重な機会だったので、カイは襟を正すとそこに腰を下ろした。お尻の下に感じる、ほのかな熱。風呂上がりのためか、背後から漂う甘い洗髪料の香りが鼻をくすぐる。正面のテレビにはにぎやかな映像と音が流れているが、ユウの手が自分の肩に触れると、何も頭には入ってこない。
「久しぶりだな」
「え? えーと……揉んでもらったことありましたっけ」
意外と言っては何だが、ユウの手つきは優しかった。強すぎず弱すぎず、適格な揉み方に、カイはいつの間にかリラックスしている。
ただ、やはり女性の手なので、そう長くはできないだろう。名残惜しかったが、数分経ってからカイは謝辞を述べてこのひと時を終わらせようとした。
それを聞き入れたのか、ユウは素直に手を離す。
が、
「ちょっ……!」
一瞬の出来事だった。
ユウはカイに身を寄せると、彼が立ち上がる間もなく、後ろから抱きすくめたのだ。両腕がカイの前に回り、体がカイの背中に押しつけられる。ふにょんという得も言われぬ感触が何によってもたらされたのか理解すると、カイの脳に電撃が走った。
あたふたとカイはパニックに陥り、ユウはそんな彼の耳元で囁く。
「暴れるな。マッサージの続きぐらいに思え」
「これのどこが、」
「気持ちよくないか?」
「や、柔らかすぎるんですよ……!」
「つけてないからな」
腕の力を緩めず、ユウはカイを抱きしめ続ける。
「何だ、今さらこれくらいで狼狽えるのか?」
「狼狽えますって……!」
「嫌か?」
そう問われて、ぴたりとカイは抵抗するのをやめてしまった。
嫌なわけがない。それは、役得的な意味合いだけではなく、相手がユウだから。
けれど、
「ぽんっ」
カイが懸念していた事態は、すぐに訪れた。
背後に感じられる、閃光と煙、衣服が舞い落ちる気配。
振り返りはしなかったが、カイにはわかる。ユウの姿は、いつか見た三人と同い年ぐらいになっているだろう。ユウにかけられた呪いによって。
それは、二人の思いが、まだ通じ合っていないという事実。
「そんな顔するな」
「……見てないのにわかるんですか?」
「わかる」
あっさりと言い切ったユウは、手を離そうとしなかった。カイの首に回っている腕は先ほどよりも細く、ほとんどぶら下がっているような格好になる。
「こんなこと、もう慣れっこだろ?」
「……慣れませんよ。慣れたくありません」
「だから、もう嫌になったか?」
「…………」
「カイ、」
彼の名前を呼ぶユウの声は、優しく落ち着いている。
「それでもあたしは、何度だってお前に触れようとする。小さくなることがわかっててもな。お前の反応は、いちいちおもしろいから」
「…………」
「そうしたいと思ってるのは、あたしだけなのか?」
カイの肩に置かれた手に、力が込められる。
答える代わりに、カイはその手を、そっと握った。
上空は薄く煙って、星の光は微かにしか見えない。
カイは離れの外――閉じた扉のそばに立っていた。中からは再びあの音が鳴って、元の姿に戻ったユウは服を着直しているはずだ。
夜空を見上げながら、ぼんやりとカイが考えているのは玲美のことだった。彼女と自分の年齢差は七つ。そして、ユウ――先生たちと、自分の年齢差も同じ七つ。どう抗ったところで、この差が縮まることはない。
玲美は自分のことを慕ってくれている。それは見当違いではないはずだ。嬉しいことでもある。だが、玲美が自分に向けてくれている感情は、もしも玲美が一族の人間だったとしたら、その呪いが解けるようなものなのだろうか。
ましてや、と思考はユウのことにめぐる。同じ年齢差に加えて、自分と彼女は教師と生徒だ。そんな関係の二人に、呪いが解けるような感情は芽生えるのだろうか。端から見れば、年下が年上にじゃれついているだけなのではないか。
そう考えると、カイの胸は締め付けられる。
ともすれば折れそうな彼の心を繋ぎ止めているのは、唯一、ユウの言葉や行動だけだった。だから、先ほどのユウの言動は、辛くもあり、救いでもある。こちら側が感じ取れる形で表出するそれらを、彼女の真意であると願うしかない。
けれど、カイが望む答えは、その道筋すら見えてこなかった。
今の暮らしは、ただの猶予期間だ。その間に見つけなければならないのに、どうすればいいのかがわからない。ヒントすら、誰も教えてはくれない。
悩んで、苦しんで、その先に解決の道があるなら、いくらでもするのに。離れることもできず、曖昧な時の流れに身を委ねたまま、不安ばかりが募っていく。
思いは、確かに胸にある。自分にも、きっとユウにも。
なのに、厳然と突き出されるのは、あの音だった。繰り返し、何度も。
「……ユウ」
「『先生』をつけろって、前にも言っただろ?」
思わず呟いた言葉に口を挟んてきたのは、離れから出てきたユウだった。カイの前を通り過ぎ、その足で母屋へと向かおうとする。
「もう行っちゃうんですか?」
一抹の寂しさから引き止めると、返ってきたのは悪戯っぽそうな微笑だった。
「つまみを取りに行くだけだ。お前も飲むか?」
「……だから、飲みませんって」
「そんなに泣きそうな顔するな。すぐ戻ってくるから」
遠ざかっていくユウの背中を見ながら、カイは息をつく。ユウに振り回され、なのに自分は、抵抗しないばかりか、それを望んでしまっている。
結局、自分の願いは、さっき握った手にあるのだろう。
その思いをもう一度確かめながら、カイは離れに入っていった。
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